大好きなブラタモリが3月9日の放送で終了しちゃいました。
ブラタモリで奈良吉野の桜の謎を解明って?地元で桜好きの私も興味津々です。秀吉や家康、伊達政宗なども見た吉野の桜について、どんな謎があったのでしょうか?ブラタモリ奈良・吉野編の、ロケ地、アクセスもまとめておきます。
ブラタモリ奈良・吉野編のテーマは「なぜ桜といえば吉野なのか」
吉野山が日本一の桜の名所になった謎を解き明かしてくれます。
ソメイヨシノ(染井村で吉野の桜が見られるの意味、染井村は現在の豊島区、ソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガンの園芸種との交配種といわれ、江戸末期から明治期に、染井(現在の豊島区駒込)の植木屋が吉野桜の名で全国各地に売り出し、のちに染井吉野と名付けたものと言われています。)の名前のもとにもなっています。
上野、嵐山、隅田川の桜は、吉野の桜を移植したものです。吉野山にも嵐山という地名があるんです。
ブラタモリ奈良・吉野 根本道場のご本尊と桜の関係とは?
吉野は、春の千本桜(一目で千本見られる)で有名。吉野山全体では3万本を数えます。桜の季節にはおよそ40万人が訪ねます。年間80万人から100万人だそうです。
タモリさんが最初に来たのは、上千本・水分神社の近くの花矢倉展望台です。桜の時期にはにはこんな風景が視界に広がります。
続いて、花矢倉展望台から吉野山の全体像を上の写真で確認していただき
写真の右上辺りにある赤丸の部分、金峯山寺蔵王堂に向かいます。
金峯山寺は修験道の根本道場です。
修験道は、日本古来の山岳信仰をベースに、仏教や神道、陰陽道などが合わさった宗教。役行者えんのぎょうじゃが開祖とされます。金峯山寺では、今も山伏たちが、修行を続けています。
金峯山寺のご本尊は、修験道の守護神である金剛蔵王権現。
修験道の開祖、役行者は、かつてヤマザクラの木を使って、蔵王権現を彫刻しました。桜の由来は、「早さ苗(稲の神)座くら(まします)」であり、神様が宿る特別な木という説があります。
修験道では、金剛蔵王権現は「桜」に象徴され、永く大切にされてきました。
平安時代に始まった、桜の苗木の献木は、江戸時代にとくに盛んになりました。人々の「祈り」が山を桜で埋め尽くしたと言えます。
余談ですが、桜が好きな西行さんの生きた時代(1118~1190年)には、すでに桜の名所として都にもその名が届いていたので、2024年の大河ドラマの藤原道長が金峯山詣に来た時にも桜の苗木の献木をしてくれたかもしれませんね。
1007年には藤原道長、1049年には頼通も金峯山詣を行っています。
ブラタモリ奈良・吉野編「なぜ桜といえば吉野なのか」カギは山の地質と参詣道の向き…桜の名所は偶然が生んだ?
ブラタモリは、金峯山寺から1キロ山を登った、滝桜と呼ばれる場所に。ここに、古来からの桜が根付く理由があるのでしょうか?
ブラタモリっぽくなってきましたね。
ポイントの一つ目は、結晶片岩
吉野山一帯には、片岩が幅広く存在しています。片岩は風化すると層が緩みすき間ができやすく、すき間に水が溜まり、岩のすき間に根を伸ばし植物が育つのだそうです。
結晶片岩は、岩石が地下深くで大きな圧力を受けてできた変成岩です。
今回、私が一番さすがと思ったのは、吉野山の桜は、北向きの斜面に多くあるということです。吉野山の桜は、多くが、日差しが弱く、水が保たれやすい北斜面に桜が植えられたのです。ヤマザクラは乾燥に弱く、乾燥しやすい吉野山の南側は向きませんでした。
さらに吉野山の北斜面の桜は、金峯山寺の参拝者が、花見しながら登ることができ、
桜と言えば吉野のイメージが定着したんだろうということなんです。
吉野の桜を世の中に広めた西行が詠んだ歌とは?
西行は、吉野の桜の歌を多数つくりました。鎌倉時代の歌人西行法師が俗界から離れる為に住んでいたとされる「西行庵」が奥千本にはあります。余談ですが、西行庵周辺には2015年新たに1000本の桜苗が植樹されましたので近い将来更に魅力的な場所になりそうですよ。西行は23歳で出家し、僧侶として日本各地を周って修行する中、吉野に3年間滞在しました。
吉野の桜についての歌では、「吉野山 こぞのしほりの 道かへて まだ見ぬ方の 花を尋ねん」や、「このもとに 旅寝をすれば 吉野山 花の衾(ふすま)を 着する春風」があります。そして最も有名な歌が、「ねがわくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」です。
「どうせ亡くなるならば、春の2月の満月の頃に花の下で亡くなろう」という意味なのですが、如月(旧暦の2月)の望月(満月)の頃とは、お釈迦様が亡くなった2月15日頃を指します。そして実際にこの歌を詠んだ翌年の2月16日に、西行は亡くなっています。
西行が歌にしたことで吉野の桜は日本中に知られることになったのですね。
吉野山で開かれた「秀吉の花見」は盛大な仮装大会!?
さらに、吉野山を有名にしたのが、伊達政宗や徳川家康といった有名な大名たちが多数参加した「秀吉の花見」。桜が見える一帯には、様々な出し物が催され、身分の上下なく楽しむという趣旨がありました。現在の花見の原点だったのかもしれません。
吉野山を借り切って催され、およそ5000人が参加し、5日間にもわたって行われたそうです。
この花見の変わった趣向として、仮装をすることが参加するための条件だったそうで、当時の様子を描いた絵図には、赤いマントを羽織ったり、奇妙な帽子をかぶったりと、様々に「仮装」した武将たちの姿が見られとか。ちなみに伊達政宗は吉野にゆかりの山伏の格好をして参加したと言われています。「桜を愛する心は誰も同じ。身分の上下なく皆で心から花見を楽しむ」という意味で、当時としては革命的な花見でした。
秀吉が花見の本陣としたのは吉水神社で、当時は吉水院と称し、金峯山寺の僧房でした。その境内からは中千本、上千本が見渡せます。
吉水神社の書院には、義経が潜居した間の近くに、「弁慶思案の間」という部屋もあります。鎌倉時代に兄・頼朝と対立した義経が追手から逃れるため、弁慶とここに滞在したと伝えられています。
また「南朝皇居」と書かれた部屋があることから、室町時代に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が吉野に移り住み、この場所で京都に対抗する「南朝」を開いたことがわかります。
秀吉がこの場所を花見の開催地に選んだのは、過去の偉人がいた場所を自分の思うように使うことで、自分の権威をアピールしようとする目的があったためと伝えられています。
吉野山を桜の時期にブラタモリ
吉野山は桜の季節はすごい人込みです。そんな中でもおすすめのコースをご紹介します。
おすすめコース
近鉄電車の吉野駅を下車。
ロープウエイや七曲りを利用せず、ささやきの小径を歩きます。
そこから如意輪寺方面に上がります。ここの道は上がりで結構きついです。
如意輪寺で南朝の歴史を感じていただいてそこから上千本へひたすら山の中を進みます。
もし、桜をもっと満喫されたい場合は、滝桜をしたから、五郎平茶の桜を楽しんでもいいですね。
上千本の花矢倉展望台でタモさんと同じ景色を眺めてください
帰りは、蔵王堂や門前町の葛や柿の葉寿司、ほら貝、
秀吉が陣をはった吉水神社からの一目千本桜もお忘れなく
⇒明治3年開業の歴史ある秘湯。秘境の地にある温泉宿ですが、修験信徒や文人が愛したお湯でもあります。島崎藤村ゆかりの温泉宿、吉野温泉元湯はささやきの小径に位置しています。
奥千本コース
西行が庵を結んだ奥千本へは、なかなかハードなので、竹林院近くから出ているバスで行くのをお勧めします。バスを降りてからも結構ハードな山コースになりますのでご注意ください。